靴に装着した「あしらせ」とスマートフォンアプリ。《写真提供 本田技研工業株式会社》

ホンダは、従業員が持つ独創的な技術・アイデア・デザインを形にする新事業創出プログラム「IGNITION(イグニッション)」の全社展開を開始した。これは「人の役に立ちたい」という熱い想いを実現するための事業として取り組まれる。

また、このIGNITION発のベンチャー企業第1号である、株式会社Ashiraseも設立された。Ashiraseは、視覚障がい者の歩行をサポートするシューズイン型のナビゲーションシステム『あしらせ』を開発中で、2022年度中の発売を目指している。

IGNITIONの概要やAshiraseの設立について、オンライン発表会が6月11日に行われたので、その様子をお伝えする。

◆自転車の補助エンジンがホンダの創業

発表会では、まず本田技研工業株式会社IGNITION審査委員長水野泰秀氏が登壇し、新事業創出プログラム IGNITIONについて説明が行われた。

「ホンダの創業は本田宗一郎が戦後、買い出しに行く奥さんたちの姿を見て、『もっと楽にしてあげたい』と考え、無線機の発電用のエンジンを自転車の補助エンジンに作り替えて売り出したのが始まり。つまり、創業以来人々の生活を助け、豊かにする製品の開発に取り組んできた」

「1953年に始まったパワープロダクツ事業が象徴で、ホンダと言えば、車やバイクのイメージが強いかもしれないが、耕運機や除雪機など生活に密着したものをずっとリリースしている。これは社会や人の役に立ちたいという想いを形にしており、この想いこそがホンダの原点である」

「ホンダフィロソフィには、『人間尊重』、『理論とアイデアと時間を尊重すること』とある。いつの時代も社会を変えていく原動力は人の情熱だ。今回紹介する IGNITIONは、『従業員ひとりひとりの情熱に火をつけたい』という思いで始まっており、ホンダの全従業員を対象に新事業のアイデアを募集する新事業創出のプログラムだ。従業員の独創的なアイデアや技術を育て、形にして社会課題の解決と新たなる価値の創造に繋げることを目指している」

このIGNITIONという取り組みは、2017年からホンダの開発部門子会社である本田技術研究所でスタートしており、たとえば子どもの交通事故を減らしたいという思いを具現化した交通安全アドバイスロボ『Ropot』は、IGNITIONから生まれたアイデアとのこと。ランドセルのベルトに取り付け、事前に設定した場所にたどり着くと振動して安全確認を促すといった、安全確認のリマインドができるロボットだ。リマインドだけでなく車の技術が多いに生かされた、ミリ波レーダーで後方から来る車両などを振動で知らせる機能もある。この「Ropot」は社内で事業化に向けて実証実験中だ。

◆起業してより早く社会に価値を提供

そしてIGNITIONは2020年に、起業した方がより早く社会に価値を提供出来るのではという意見もあったため、ベンチャーを起業して事業化を目指すという方法が追加された。2021年には、ホンダの全従業員が対象となった。

IGNITIONの特徴はふたつ。ひとつ目は、ベンチャーキャピタルとの連携。事業開発フェーズでは、審査員としてベンチャーキャピタルに参画してもらい、起業の判断をしてもらう。事業育成フェーズでは、ベンチャーキャピタルなど外部の投資家に出資・支援してもらう。ふたつ目の特徴は、事業継続・スピンインのふたつの道筋を用意している点。事業を進めていくなかで、ホンダの新事業として取り組んだ方がより社会に価値を提供出来るのなら、ホンダにスピンインしてもらい、ホンダの事業として育成していく。もちろん会社を興して、ホンダに残らずに事業を継続することも可能だ。

今回起業の第一号となったのが、Ashirase(あしらせ)だ。水野氏は、株式会社Ashirase(あしらせ)の設立について以下のように述べている。

「開発者の千野さんは視覚障害者に自由で安全な移動を提供したいという思いで、視覚障害者向けのナビゲーションシステムのあしらせを開発している。彼はもともと、自動運転やハイブリッドのモーター制御の開発に携わっていて、あしらせ開発には、これまでの知見が生かされている。このように、IGNISTIONをきっかけに、従業員の持つアイデアや技術を早く形にして既存事業の枠を超えた価値を早く提供していきたい。ホンダとしては、人の役に立ちたい、社会に貢献したいという熱い想いを後押しして、ホンダ全体のチャレンジングスピリットをさらに活性化できればいい。果敢に挑戦してまだ世の中にないモノやコトを創造して、世の中に新しい風を起こしていきたい」

次に株式会社Ashirase代表取締役の千野歩氏が登壇し、まずは会社の紹介からスタート。Ashiraseは、「人の豊かさを“歩く”で創る」というミッションを掲げている。歩くことで自立し、自分を好きになれる、そして他者まで尊敬できるといった、人の豊かさに溢れた社会を、「歩く」と言う手段を使って創っていきたいとのこと。

あしらせを開発するチームについては、制御、ソフトウェア、ハードウェアとそれぞれの得意な領域に分かれたエンジニア3名で構成されており、自動運転システムエンジニアとして代表の千野歩氏、組み込みソフトウェアエンジニアの田中裕介氏、組み込みハードエンジニアの徳田良平氏の3名がメインスタッフとなっている。

◆当たり前にやっていることを、当たり前に諦めている

「あしらせ」の開発には、きっかけとなった事故があり、その事故について千野氏は語った。

「3年前に、目の不自由だった妻の祖母が、川に落ちて亡くなるという事故があった。3〜4日、川の中から見つからないという壮絶な事故だったが、この事故をきっかけにあしらせの製作活動をスタートした。いざ活動を通じて、様々な視覚障害者の方とお話しすると、ひとつの印象的な言葉を聞いた。それが『自由に移動することなんてことは諦めている』という言葉だった。私たちが当たり前にやっていることを、彼らは当たり前に諦めているんだなと強く実感し、それ以来、この課題をなんとしても解決したいと考えて開発を続けている」

あしらせのターゲットは、日本にいるロービジョン(全盲ではなく少しだけ視覚が残っている重度な視覚障害者のこと)の約145万人に向けられている。重度の視覚障害者の方々は、タクシーでの移動、盲導犬の利用、家族の付き添い、ガイドヘルパーなどが必要となり、健常者に比べ、自由に外出することが出来ない。そういった方々に気軽に使ってもらうためあしらせは、自分の靴に簡単に取り付けられるデバイスになっている。

仕組みは、まずデバイスに内蔵されたモーションセンサーによって、ユーザーの動作情報をアプリに送り、ナビゲーションのアプリと融合することで、視覚障害者の方に適したナビゲーション情報を創り出す。そしてその創り出された情報を靴に取り付けた振動センサーに送ることで、振動による誘導を行うようになっている。

テストとして実際にあしらせを使った視覚障害者は、「あしらせを使えば歩くことに集中出来るし、周りを確認しながら歩くことができる。そういうことが街を楽しむことに大きく寄与しているのでは無いかと思う」と、好印象だった。

◆他のインターフェースを邪魔しない、新たなインターフェース

千野氏によると「あしらせ」は、「安心」、「余裕」、「持続的な達成感」をコンセプトに開発している。まず安心については、感覚を邪魔しないで使えるということを大切にした。視覚障害者の知覚インターフェースでは、白杖を持つ手、周囲の人や白杖の反射音などを聞く耳、点字ブロックを感じ取る足の裏が重要なとなるため、これらの部位を邪魔しないインターフェースが必要になる。そこで採用されたのが、足の甲や側面を利用するという振動インターフェースだ。

余裕については、「伝え方」、「伝える内容」に注力して開発が進められた。通常のナビゲーションアプリは、画面を見たり、外の景色を見たりすることが前提となっているため、視覚障害者には使い勝手が悪く道に迷ってしまうことになる。そこで、伝え方をシンプルに、前進、一時停止、右左折の3つに分け、振動する部位とテンポでシンプルに通知。伝える内容は、進む方向を簡単に認識できるようにし、スマホの画面確認が不要な直感的なナビゲーションを目指している。

持続的な達成感については、「歩ける」とわかることが達成感に繋がると考えたとのこと。中途失明の方にお話を聞くと、「道に迷うと見えていた時を思い出して悔しくなる」といったことや、周りの人に道を聞いても無視されてしまったりすると、それが心理的に影響し、外出できなくなってしまうといったことがわかった。そこでルートについては、あしらせがしっかりサポートするので、視覚障害者の方は安全確認だけしっかりとしてもらう。自分の意思で歩けるということができれば自信に繋がり、それは達成感へと繋がっていくはずだ。

また、3つのコンセプト以外にも、生活の中にできるだけ溶け込ませたいという思いもあり、どのような靴にも取り付けられ、付けたまま脱ぎ履きでることも考えている。さらにこれからは、洗えるといったことや、充電間隔も週に1回程度でよいといった利便性の部分も、もっと上げていきたいとのこと。

最後に千野氏は、「人の動作センシングと衛星連携」、「歩行ナビゲーション技術」、「新たな人とのインターフェース」の3つを通じて、「人の豊かさを"歩く"で創る」を突き進めていきたいと決意を述べた。

◆ホンダの本気度、大企業とベンチャーは対義語ではない

次に、トークセッションも行われた。水野氏、千野氏に加え、リアルテックファンド代表・永田暁彦氏の3人がステージに集まり、今回の事業がホンダにもたらすものというテーマで話しあわれた。

まず水野氏は、審査員を永田さんにお願いした理由について、企業理念がホンダと似ているところを挙げた。とくに技術によって社会で起きている課題をどう解決していくかを考えるといった部分はホンダの考えと同じであり、また企業を興すツボを心得ているので、事業面でのアドバイスを頂きたいと思ったとのこと。熱い思いを持っている「漢(おとこ)」といった面があるのも、ホンダにはピッタリだと思ったと付け加えていた。

IGNITIONについて水野氏は、ホンダチャレンジングスピリットというキャッチフレーズのように、ホンダは挑戦することを大事にする会社であり、技術で社会や皆さんのお役に立ちたいという思いが強い。社員が持っている技術や思いを、いち早く製品にするために、起業という考え方取り入れることにしたと説明。ただし、起業については厳しいということも把握しており、今回第一号起業となった千野氏が苦労して開発を進めていることを理解しており、難問を乗り越える喜びを感じることも大事だと思っているとのこと。

審査員として参加して率直にどう感じたかに聞かれた永田氏は、「大企業とベンチャーは対義語として使われることが多いが、ベンチャーだから物事を素早く展開していくというのは、IGNITIONで覆った。今まで、ベンチャーは意思決定が早く、社会の課題に対して素早く解決策を見つけて製品化を目指すということが、専売特許だと思っていたが、IGNITIONに携わってみたら、大企業であるホンダがベンチャーのような意思決定をしているということに驚いた。社内起業はどんな会社でもよくあったが、それとは一線を画すリスクの取り方、人の出し方といった観点からIGNITIONに対するホンダの本気度、そして社員にこんなに情熱があるとは思わなかった」と述べた。

◆あしらせを成功させるための3つのポイント

そして永田氏はあしらせを成功させるための3つのポイントについて語った。「成功するには、『やめないこと』、『変わり続けること』、『応援されること』の3つであると考えています」とのこと。

「やめないことは、そのままですが、やめなければ必ず成功します。変わり続けることは、企業と違ってベンチャーは資金力も乏しいので、生き残らなければいけないということも考える必要がある。それには、最初の事業計画とは違ったことに取り組むことになっていても、目的に対して自分たちが変わり続けていくことは非常に大切で、スキル・ノウハウでは語れない部分である。最後の応援されることというのは、応援される人や会社には、いろんなものが集まる。最初からホンダのサポートがあるというのは非常に大きなことで、人々が共感していくと、ハートもお金も積まれていく」

千野氏は今回の開発について苦労した点について聞かれ、「私は目が見えているので、自分たちのやっていることが視覚障害者にとって本当に価値があることなのか、自分では答えを出せない。視覚障害者の方とどれだけコミュニケーションを取れるかということは大きな課題で、これからもしっかりとコミュニケーションを取って、製品開発に生かしていきたい。大企業にいると、どうしてもキレイに作ろうとしがちだが、視覚障害者の方にどれだけ価値のある製品を届けられるのかが大事なので、意見によっては形が変わっていく事も許容していかないといけないと思っている」と不安も吐露しつつ、これからについても語った。

千野氏の会社が発足し、期待することについて聞かれた永田氏は、「社会が大きく変容している時代、社会的課題をテクノロジーで解決する起業家が成功して社会に浸透するというのが、本来のあるべき姿だと考えている。ホンダという集団の中から、最初に飛び出していくということは、千野さんはファーストペンギンだと思う。ただファーストペンギンは応援してもらいやすく、2匹目、3匹目より成功しやすい。その代わり、後ろのついてくる後輩たち次世代を引っ張るという役割も乗っかってくるので巴菜以下と思う」と期待を込めた回答をした。

最後に水野氏はIGNITIONの今後について、「化学変化というのはどのように起こるかわかりづらいが、今回千野さんがファーストペンギンになることで、ホンダの中でもその様子を見ている人がたくさんいる。千野さんの取り組む姿が刺激になって、まさにイグニッションである点火剤になって、様々なチャレンジをして、その結果ムーブメントになり、モノやコトを創り出してくれればいいなと思う」と締めくくった。

靴に装着した「あしらせ」とスマートフォンアプリ。《写真提供 本田技研工業株式会社》 「あしらせ」のデバイス。黄色の部分は靴の中に取り付ける立体型のモーションセンサー付き振動デバイスになっている。《写真提供 本田技研工業株式会社》 ユーザーの動作情報を元に、誘導情報を作成。振動インターフェースとスマホはBluetoothによって接続される。《写真提供 本田技研工業株式会社》 株式会社Ashirase代表取締役 千野 歩と「あしらせ」。《写真提供 本田技研工業株式会社》 本体を装着したまま靴を脱いだり履いたりできるように設計されている。《写真提供 本田技研工業株式会社》