『1900スプリント』(手前)と並んで展示されているのは、そのベースになったS5型スカイライン、そしてプリンスとイタリアの初の協業成果であるスカイライン・スポーツ。《写真撮影 千葉匠》

横浜の日産本社ギャラリーに『プリンス・1900スプリント』が展示されている。60年前の東京モーターショーに出品されたスポーツカーのレプリカだ。展示は10月24日まで。流麗な姿の1900スプリントとは一体どんなクルマなのか。

◆発端は国民車構想
プリンス自動車工業は旧立川飛行機を母体に「東京電気自動車」として1947年に創業し、66年に日産に吸収合併された。日産の電気自動車のルーツである『たま』を開発・生産したのが東京電気自動車だ。

50年に朝鮮戦争が勃発すると電池材料である鉛が高騰したため、東京電気自動車はエンジン車に転向。旧中島飛行機の流れを汲む富士精密工業と合併してエンジン技術を手に入れ、51年に『プリンス・セダン』を発売し、日産と合併するまで「プリンス」をブランドネームとした。

そんなプリンスは60年代初期、政府の「国民車構想」に基づいてリヤエンジンの小型車、コードネーム「CPSK」を開発していた。国民車構想とは、4人乗りで最高時速100km、販売価格25万円以下など、厳しい条件をクリアできたメーカーには、国がその生産販売を支援するというものだった。

結果的にどのメーカーも条件をクリアできず、プリンスもCPSKを断念するのだが、そこに至る前にプリンスはCPSKをベースとするスポーツカーをイタリアで試作。そのデザインについて、イタリア人デザイナーのフランコ・スカリオーネと協業していた。大学で航空工学を学んでベルトーネのデザイナーとして活躍したスカリオーネが、独立してまもない頃のことだ。

◆プリンスのデザイナーがイタリアで修行
このときプリンスから井上猛というデザイナーがスカリオーネの元に派遣されていた。井上は百貨店・高島屋の家具デザイナーからプリンスのカーデザイナーになった人物だ。

当時の高島屋には家具部があり、オーダーメイドで家具をデザイン・制作していた。その顧客のひとりがブリヂストンの創業者であり、プリンスの実質的なオーナーだった石橋正二郎氏。井上は石橋邸の家具をデザインした縁で、高島屋を定年退職後にプリンスで働くことになった。

まもなく井上は本場のカーデザインを学ぶためにイタリアに渡り、ジョバンニ・ミケロッティの下で修行を始めると共に、社命を受けてスポーツカーのデザインをミケロッティに委託した。1960年のトリノショーでデビューした『スカイライン・スポーツ』である。

その後、修業先をスカリオーネの工房に移した井上は、国民車CPSKをベースとする4人乗りクーペの「CPRB」をスカリオーネと共にデザイン。しかしCPSKが廃案となって、CPRBも闇に葬られることになった。

発表の場を失ったCPRBだったが、帰国した井上はベース車をS5型スカイラインに変更してCPRBのデザイン要素を再構成。当時は三鷹にあった工場で木型を作り、板金して、一品製作されたのが1900スプリントである。63年の東京モーターショーでデビューした。

◆再生に向けて日産が協力
1900スプリントは80年代まで日産社内に保管されていたそうだが、残念ながら廃棄されてしまった。今回、日産ギャラリーに展示されているのは、資料をもとに往時の姿を再現したもの。プリンス愛好家の田中裕司氏が日産の協力を得ながら、大阪のINDEXという会社に依頼して製作した。田中氏から借用して日産ギャラリーに展示している。

田中氏が「日産アーカイブズ」に図面などの資料提供を求めたことから、今回のプロジェクトが動き出した。「日産アーカイブズ」は日産のクルマ作りの歴史的調査や資料収集を行っている有志グループ。その関係者によると、田中氏は実車が存在しないなら作ってしまおうと考えたという。驚くべき意欲だ。それに応えて、日産側も体制を整えていく。

「日産アーカイブズ」に1900スプリントの図面はなかった。そこで日産モータースポーツ&カスタマイズのオーテックデザイン部が、1900スプリントのサイドビュー写真から13インチ・ホイールを手掛かりに寸法を割り出し、縮尺サイズの小さなクレイモデルを制作。日産デザイン本部でも同様の手法でクレイモデルを作った。

どちらも面の表情などは写真を見た感覚だけで作り込んだという。デザイン開発のデジタル化が進んだ現代では、見た目の感覚でクレイモデルを削る機会はほぼ皆無だが、それもモデラーにとって大事な技能。モデラーの教育プログラムとして、1900スプリントのクレイモデル制作を実施した。「日産アーカイブズ」の活動のために多忙なデザイン現場の工数を使うには、教育という大義名分が必要だったのだろう。

さらにオーテックデザイン部では、Aliasというカーデザインで多用される3Dソフトの教育プログラムとしても今回のプロジェクトを活用。実車の写真から作成した立体データでクレイモデルを修正し、写真を見た感覚でそれをまた修正して立体データに反映する。それを繰り返して最終形状を特定した。

その最終形状データをもとに、S5型スカイラインのフロアをベースにINDEXが作り上げたのが今回の1900スプリントだ。オリジナルは手叩き板金のボディだったが、もはやそれができる職人はなく、FRPで形状を再現した。

◆60年代スポーツカーの魅力
60年代は丸みを帯びたフォルムがトレンド。デザイナーたちが空力を意識するようになった影響が大きい。もともと航空機エンジニアを目指していたスカリオーネはそのトレンドリーダーの一人であり、1900スプリントは流麗な曲面に包まれている。

折れ線がほとんどない曲面フォルムは、現代の感覚では新鮮に映ることだろう。しかし1900スプリントが我々に語りかけてくるものは、それだけでない。注目してほしいのは、リヤピラーの根元あたり。ボディとキャビンが融合するラインだ。

現代のカーデザインの常識ではひとつのカーブでスムーズに通すべきラインなのだが、1900スプリントではリヤフェンダーの膨らみの影響を受けて微妙にうねっている。関係者に話を聞くと、やはりモデラーはこのラインをスムーズに通そうとしたという。しかし、それではオリジナルと違ってしまう。

スムーズではないけれど、そこにあるオリジナルの味わいをあえて残した。クルマのカタチは複雑な立体形状だ。それを整理整頓することがカーデザインのひとつの進化だったわけだが、そのために味わいが失われてしまったかもしれないことを1900スプリントは教えてくれる。

これは実物を見ないとわからないこと。10月24日まで展示されているので、ぜひご覧いただきたい。

ジョバンニ・ミケロッティと井上猛。《写真撮影 千葉匠》 1960年のトリノショーでスカイライン・スポーツがデビュー。カブリオレとクーペが出品された。日産ギャラリーに展示されているクーペは当時の出品車そのもの。《写真撮影 千葉匠》 三鷹工場で製作された1900スプリントの木型。CPRBの木型の一部を流用しながら、S5型スカイラインの寸法に合わせてデザインを再構成した。《写真撮影 千葉匠》 流麗な曲面に包まれた1900スプリント。《写真撮影 千葉匠》 オーテックデザイン部による寸法の割り出しとスケールモデル。《写真撮影 千葉匠》 日産デザイン本部でも同様に縮尺サイズのクレイモデルを制作した。《写真撮影 千葉匠》 オーテックデザイン部はさらに3Dソフトも活用して、オリジナルの形状を再現した。《写真撮影 千葉匠》 大阪のINDEXでのボディ製作シーン。《写真撮影 千葉匠》 ボディとキャビンが融合するラインが少しうねっている。今のデザインの常識ではスムーズに通してしまうところだが、そこに60年代ならではの味わいがあることを1900スプリントは教えてくれる。《写真撮影 千葉匠》